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【雑記】今週のお題「秋の歌」


JPOPや童謡など秋の歌は沢山あるはずなのですが最初に思い浮かんだ歌は

「このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山
紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに」

小倉百人一首24番、読んだのは菅家(菅原道真)です。

和歌だって「歌」だろう!
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現代語訳と簡単な解説

残念ながらちゃんと古典作品を鑑賞するだけの学が私にないので、小倉百人一首を解説している株式会社 小倉山荘さんから引用します。
現代語訳

今度の旅は急のことで、道祖神に捧げる幣(ぬさ)も用意することができませんでした。手向けの山の紅葉を捧げるので、神よ御心のままにお受け取りください。

解説

歌はちょっとわかりにくいところもありますが、旅の途中、道ばたの道祖神(今のお地蔵さんのようなものです)にお参りする時に捧げるきれいな紙切れや布切れの代わりに、美しく色づいた紅葉を神に捧げましょう、という歌です。
「急な旅立ちで持ってこられなかったけれど、紅葉を幣に見立てましょう」というわけです。
吉野の山の絢爛豪華な紅葉がイメージできるような美しい歌ですね。

(引用元:
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに | 小倉山荘(ブランドサイト) | 京都せんべい おかき専門店 長岡京 小倉山荘)

紅葉の木々を錦に見立てるセンス、さすが風流ですよね。そして錦のごとく広がる美しい紅葉の情景が目に浮かびます。
「このたびは」は「この度は」と「この旅は」の掛詞ですが、こうした言葉遊びを1000年前から日本人が楽しんでいたことが面白いですよね。
「神のまにまに」(神の御心のままに)の響きも可愛くて好きです。

小倉百人一首とは小学生で出会った

小学5年生のクラス担任が、年度末に百人一首大会をクラスでやるために一日一首朝の会で紹介していたんです。

ちゃんと天智天皇の
「秋の田の 
仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 
苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ

から毎朝です。

そう言えばこの歌も秋の歌ですね。
ですがこちらは仮庵から漏れた露で衣手が濡れていて少し物悲しい秋の姿を歌ったのに対し、菅家は鮮やかな紅葉を歌っている分、華やかさがあって私は好きです。


閑話休題。
小学生ながらに初めは真面目に覚えようとしていたのですが、だんだん覚えきれなくなって断念した記憶があります。
その中で24番目の「このたびは~」はなぜか覚えていたんです。
きっと掛詞の面白さと「紅葉の錦」という情景が想像しやすかったからでしょう。

百人一首しようと言い出した担任に感謝

小学5年生だとまだ国語の授業でやっと短歌や俳句を習った頃でしょうし、当然古文も学んでいないので、おそらく私が人生で初めて出会った古典作品のきっかけを作ったのはその担任の先生だったでしょう。

たった31文字で風景や感情を描く和歌の世界の奥深さ。
現代語と違う言葉でも抱える悩みや思いは同じものがあること。

大人になった今、改めてちゃんと勉強しなおしたいと少し思います。思うだけだけど。

小倉百人一首を用いた作品だと「うた恋い。」が好きです。


今回紹介した菅家も4巻で紹介されています。

だけど一番好きなエピソードは小野小町と僧正遍昭。
女性は名前すら「誰かの娘」や「誰かの妻」としか残らなかった時代に仕事に邁進していった小野小町とそれをそばで見ていた男の話。
僧正遍昭についてはエピソードの演出も好き。歴史や文学に疎い私は最後に「この人のことだったのね」と明らかになる流れで一本取られ、ぶっちゃけ泣きました。

私は紅葉狩り未経験者

人混みと渋滞と行列が大嫌いで秋の日光や京都などという危険地帯には近づかないようにしているせいで、私は紅葉狩り未経験です。
ですが田舎育ちなので小学校の裏山の桜の葉がだんだんくすんだ茶色に染まっていく様を見て秋を感じていました。
ほかにも山育ちの父親に連れられて近所の公園でギンナンを採取したことや、通っていた大学の構内にイチョウが並んでいたことは印象深いです。

もしかしたら私の中の紅葉(こうよう)は桜の木とイチョウかもしれない。